【多田神社】異界へのトンネル?鬼王、酒呑童子の首を洗った池

鬼、と言われて一体どういうものをイメージしますか?

鬼滅の刃などの影響もあり、若い人も鬼について興味を持った方も多いと思います。

鬼という言葉の起源は中国で、「死者の亡霊」の意味で「鬼」の字が扱われていました。

日本では奈良時代に「鬼」の字が使われているが、当時は魔物や怨霊などを「物(モノ)」や「醜(シコ)」と呼んでいたため、この字も「モノ」や「シコ」と読まれてました。

「鬼」が「オニ」と読まれるようになったのは平安時代以降で、『和名抄(わみょうしょう※平安時代に作られた辞書)』には、姿の見えないものを意味する漢語「隠(オン)」が転じて、「オニ」と読むようになったとあります。

以降、鬼を巡るイメージはその時々によって非常に多様化し、地獄において閻魔王の元で亡者を責める獄卒としての鬼、妖怪、物怪、亡霊、時には非常なならず者を鬼と呼んだこともありました。

平安時代、大江山にアジトを構え、都の人々を震え上がらせた「酒呑童子(しゅてんどうじ)」の名で呼ばれた鬼がいたことをご存知でしょうか。

鬼王の異名を持ち、数々の絵巻者や説話で知られ、日本三大妖怪にも名を連ねる鬼です。

ここ、兵庫県川西市にある『多田神社』には、その酒呑童子が成敗された後、その首を平等院に納められる前に洗って清められたと言い伝えられている池があるのです。

それでは行ってみましょう!

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多田神社の歴史を簡単にご紹介

まずは『多田神社』の歴史を分かりやすくご紹介します。

多田神社は天禄元年(970)年に創建され、元多田院とも多田大権現社とも言われる清和源氏発祥の地として有名な神社です。

元々は天台宗の寺院として建立されましたが、明治4年の神仏分離令により仏舎が廃され「多田神社」となりました。

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多田神社で期待出来るご利益とご祭神

御祭神は、第56代清和天皇のひ孫である源満仲(みなもとのみつなか)公を始め、源頼光(みなもとのよりみつ)、源頼信(みなもとのよりのぶ)、源頼義(みなもとのよりよし)、源義家(みなもとのよしいえ)の五公をお祀りしています。

源頼朝や義経は満仲公の子孫にあたります。

清和源氏は繁栄を重ね、鎌倉・室町・江戸時代と700年余りにわたる武家社会の担い手となり、武運長久の勅願社として、また家運隆昌・勝運・厄除の守護神として信仰を集めている神社であります。

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源頼光の妖怪退治譚

ゲゲゲの鬼太郎、ゴーストバスターズ、そして現在なら鬼滅の刃など世界中の様々な映画や物語に妖怪や幽霊退治のプロフェッショナルが登場しますが、この神社に祀られる源頼光も、平安時代の日本に活躍した最強の妖怪退治のエキスパートとして多くの伝説を持つ人物です。

平安時代中期の武将であり、父は第56代清和天皇のひ孫鎮守府将軍・源満仲、母は嵯峨源氏の近江守・源俊の娘。「よりみつ」と読みますが、諱はしばしば「らいこう」とも読まれます。

有名な頼光四天王と呼ばれる渡辺綱(わたなべのつな)、坂田金時(さかたのきんとき)、碓井貞光(うすいのさだみつ)、卜部季武(うらべのすえたけ)を従え、数多くの妖怪、鬼退治の武勇伝を残しています。

退治した妖怪は、後述する酒呑童子の他、市原野で頼光の命を狙った怪童鬼同丸、頼光の郎党・渡辺綱によって腕を切られた一条戻橋の鬼、同じく頼光の郎党である平季武が美濃国で出会った妖怪産女、そして土蜘蛛など枚挙にいとまがありません。

それらの伝説は『今昔物語集』から『御伽草子』にいたるさまざまな説話集に登場し、まさに最強の妖怪バスターとしての頼光のイメージを焼き付けています。

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源頼光による大江山の鬼退治

時は平安時代、一条天皇(980〜1011)の御世、京の若者や姫君が神隠しに遭うという事件が続出していました。

安倍晴明に占わせたところ、丹波国と丹後国の境にある大江山(現在の京都府内)に住む酒呑童子と呼ばれる鬼の仕業とわかり、そこで帝は長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせました。

頼光は屈強な配下(渡辺綱、坂田公時、卜部季武、碓井貞光)と、藤原保昌と手を組み、山伏を装い鬼の居城を訪ね、一夜の宿をとらせてほしいと頼みました。

酒呑童子らは京の都から源頼光らが自分を成敗しにくるとの情報を得ていたので警戒し様々な詰問をしますが、なんとか疑いを晴らし酒を酌み交わして話を聞いたところ身の上話を語りだしました。

大の酒好きなために家来から「酒呑童子」と呼ばれていること、平野山(比良山)に住んでいたが伝教大師(最澄)が延暦寺を建てて以来、そこには居られなくなり、嘉祥2年(849年)から大江山に住みついたことなどなど。

頼光らは話を聞く素振りをしながら、鬼に八幡大菩薩から与えられた「神変奇特酒(しんぺんきとくしゅ)」という毒酒を振る舞い、たらふく飲ました。

酔っ払った酒呑童子が寝所に入ったところに、時は来たとばかりに、背負っていた武具で身を固め襲い、身体を押さえつけて酒呑童子の首をはねました。

酒呑童子は首を刎ねられてなお頼光の兜を噛みつきにかかったが、頼光は仲間の兜も重ねかぶって難を逃れました。

酒呑童子は、

「鬼に横道なきものを・・・(鬼は嘘をついたり騙したり道に外れることはしない)」

の言葉を最期に残し絶命しました。

一行は、首級を持ち帰り京に凱旋。

首級は帝らが検分したのちに宇治の平等院の宝蔵に納められました。

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酒呑童子の首を洗った鬼首洗池

酒呑童子が源頼光等によって成敗されたことでこの事件は収束を見たわけですが、なんとここ多田神社には、刎ねられたその首を平等院に納められる前に立ち寄り洗って清められたと言い伝えられている池があるのです。

鳥居を潜り、境内を進み、正面に見える拝殿を右に回り込み、本殿の横にその池はあります。
※現在、拝殿の横に柵が設置されているので、中に入るには社務所で許可を取る必要があります。

ひっそりと存在するその池は、”鬼首洗池”の名前の通り、おどろおどろしく、吸い込まれてしまいそうな何とも言い難い妖気と魅力を放っています。

ところで、刎ねられたばかりの血で汚れたその首をこの池で洗い清めたというのは、一体どういう意図があったのでしょうか。

当時の怨霊に対する恐れと信仰は現在よりずっと強かったはずです。

まして鬼と恐れられ悪事を重ねてきた挙句、騙されて無念の死を遂げた酒呑童子の怨霊であればなおさらです。

酒呑童子の最期に発した、「鬼に横道なきものを・・・(鬼は嘘をついたり騙したり道に外れることはしない)」という言葉からもその無念さは伝わります。

恐らく、死してなお脅威に思われた酒呑童子の妖力を無効化するためだったのではないでしょうか。

この池で洗い清めた後、宇治の平等院に納められたというその首は現在もそこに保管されているのでしょうか。

謎は深まります。

酒呑童子を成敗した時に用いられたと伝わる源家の宝刀、”鬼切丸”は現在も当神社の宝物殿に保管されています。

意外や意外、酒呑童子の実態とは!?

鬼として恐れられた酒呑童子ですが、その実態に関しては、実は意外とも思える様々な説がありますので紹介させていただきます。

・酒呑童子=異人説

丹後地方では酒呑童子=異人説が根強い。
日本近海を航行していた異国船が難破して丹後半島に漂着、髪や肌の色の違った異国人の姿から、当時の現地人は鬼として恐れたというものです。

・酒呑童子=プレイボーイ説

出生は越後で、幼名を外道丸(げどうまる)といい、美少年であったため多くの女性に恋され恋文をもらったが想いを伝えられなかった女性の恋心が煙となって彼の周りを取り囲み、その怨念によって鬼になり、山々を転々として最後に大江山に棲みついたという説です。

・酒呑童子=伊吹大明神の子説

出生は近江で、嵯峨天皇(809-823)の御代、比叡山廷暦寺に、不思議な術を心得た稚児がいました。人々が怪しんで素性を調べたところ、井口の住人須川殿という長者の娘王姫の子であり、伊吹山の山の神=伊吹大明神の申し子であったというもので、3才のころから酒を飲んだので酒呑童子と名付け、10才のとき比叡山の伝教大師のもとへ稚児として弟子入りします。
帝が新しい内裏に移ったお祝いの祭日の日、「鬼踊り」をしようということで三千人の僧の鬼の面をつくり、とくに精魂こめて作った自分用のお面をつけ京の都へくり出し、大変な人気でありました。
山に戻って、大宴会ののち、酔いがさめ鬼面をとろうとしましたが、肉にくいついてとれません。伝教大師は、酒呑童子を山から追い出し国に戻しますが、肉親からも見すてられ、山々を転々とし、ついに大江山にいたったというものです。

これらの説から共通しているのは、鬼と恐れられた酒呑童子が元々人間としての心を持っていたのが、ダークサイドに落ち、鬼になっていったということです。

そう考えると、「鬼に横道なきものを・・・」という酒呑童子のこの最期の言葉が、人としての心の側面を感じさせる面もあり凄く切なく響きます。

史実と潜在的な畏れが交差するミステリー

鬼といえば今では伝説の妖怪のとして説話やお祭りに登場するにとどめていますが、神や魂、または怨霊といった目に見えないものの力を信じていたこの頃の日本ではもっと現実的なものとして恐れる対象でした。

そして、科学が発達し、色々なものが日の元露わにされ、非現実的なものの居場所が狭くなっていってるように思える現在でも、我々の心の奥底ではそういう目に見えない存在についての畏れを潜在的に引き継いでおり、鬼首洗池はそういう世界へ通じるトンネルのようなものと考えることもできるのではないでしょうか。

アクセス/多田駅から徒歩15分!

電車の場合

阪急電鉄宝塚線「川西能勢口駅」にて能勢電鉄乗り換え、「多田」駅下車。桜馬場を西へ約1キロ徒歩約15分。

電車とバスの場合

阪急電鉄宝塚線「川西能勢口駅」下車。阪急バスにて「多田神社前」
北約100メートル徒歩約2分。
(大阪梅田より約1時間、神戸より宝塚廻り約1時間半)

車の場合

阪神高速11号池田線 池田木部出口より車で約10分。
新名神高速道路 川西インターチェンジより約10分。
※御社橋渡って左折、右側に有料駐車場あり(駐車料金300円)

多田神社:〒666-0127 兵庫県川西市多田院多田所町1−1

参拝時間:06:00~17:00

ライター

クラゲナス

幼少の頃より神社仏閣の空気感が好きで、現在は音楽家として活動しながらツアーの合間にも時間があれば各地の聖地巡りをしています。

聖地と呼ばれる場所の深層に触れることに興味があり、神話とか縁起とか縄文とか古代とかのワード見るだけでゾワゾワきます。

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