『かいぬしのきもち』 作・春名功武

〈あらすじ〉

一泊二日の熱海旅行から帰ってきた中年夫婦。おバカな愛犬が、天才犬に変わっていました。

〈本文〉

その50代夫婦に子供はなく、代わりにというわけではないが、犬を飼っていた。犬種は柴犬。性別はオス。名前は大福。2年前にたまたま家の近くに柴犬のブリーダーがいることを知り、直接購入した。夫婦はたいそう大福を可愛がっていた。

その大福の様子が、先程から何だか変なのだ。妻の違和感が確信に変わったのは、大福におやつの犬用のクッキーをあげた時だ。確か16時頃。いつもならそんな時間におやつをあげる事はないのだが、昨日から一泊二日の熱海旅行に行っていたので、留守番をしたご褒美としてオヤツを与えたのだ。旅行の間、大福の面倒は、近所に住む甥っ子の晴彦に見てもらっていた。

「あなた、ちょっと来て。大福が変なの」
妻はリビングでくつろいでいる夫を呼んだ。
「何だ、何だ」と、夫がやってくる「今、やっと落ち着いたところなのに」
「大福が可笑しいんですよ」
「可笑しい?何が可笑しいんだ?」
夫は妻の足元でお座りの姿勢を取っている大福に視線を向ける。大福は肥満気味なボディ、栗色の毛並み、つぶらな瞳、といったオーソドックスな柴犬であった。

「ちょっと見ていてくださいよ」
妻は大福にクッキーを見せてから「お手」と手を差し出す。大福はすかさず妻の手の上に前脚を重ねた。お手だ。
「お、お、お手をした……」
夫は戸惑いと興奮が入り混じった声で言った。犬がお手したぐらいでそんなに驚くこともないだろうと思うかもしれないが、この2年間、二人が何度教えても、一度もお手をした事がなかったのだ。

「ね、可笑しいでしょう」
そう言いながら、妻は大福にご褒美のクッキーをあげる。大福はクッキーを口に入れると、ムシャムシャと咀嚼し、あっという間に平らげる。大福はまだ妻の目の前に座っている。大きな口を開けて、つぶらな瞳でじっと妻を見上げている。もっと欲しいという顔だ。

「ちょっと、俺にもやらせてくれ」夫はクッキーを手にすると「大福、いいか、いくぞ。お手」
と聞き取りやすいはっきりとした口調で言い、手を差し出す。大福は先程と同様にすかさず前脚を夫の手に重ねた。お手だ。

「どうなっているんだ。どうしてお手をするんだ」
夫はそう言いながら、ご褒美のクッキーをあげる。妻はどこか得意げにこう漏らす。
「実は、お手だけじゃないの」
「な、何だって…」
「お手が出来るんだったら、もしかして他も出来るんじゃないかと思って、やってみたのよ。そしたら、お代わり、ふせ、ちんちん、全部出来たのよ」
「本当か」
夫は試してみたくなる。クッキーを手にすると「お手」「お代わり」「ふせ」「ちんちん」と次々と指示を出していく。大福はいとも簡単に全て完璧にやってのけた。ご褒美のクッキーをあげる。

「どうなっているんだ」
「凄いでしょう」
「じゃこれはどうだ」
夫は大福に向かって「パン」と拳銃を撃つ真似をする。すると、大福は撃たれてバタンと倒れる真似をした。天才犬じゃないか。ご褒美のクッキーをあげる。そしてやけくそとばかりに夫は「1+1=」と声を張り上げる。大福は「ワン、ワン」と2度吠えた。ご褒美のクッキーをあげる。

ここまでくると不可解であった。「お手」「お代わり」までは教えようと口にした事はあったが、それ以外のハイレベルな芸を教えた事などなかった。「お手」が出来ないのに、その先に進むわけがない。それなのに、どうして出来るのだ。

「俺らが熱海旅行に行っている間に何かあったのか。晴彦が教えたんじゃ?」
「まさか。あの子はそんな事しませんよ」
「じゃ急に天才犬になったというのか」
「それか……」妻はずっと心に引っ掛かっていた事を口にする「この子、大福じゃないのかも」

実は夫もそれを感じていた。帰って来てケージの中にいる大福を出してやろうとした時、何だか違和感を覚えたのだ。だけど普通にケージの中にいるのだから、大福でないと誰が思うというのだ。大福でないと疑うより、旅行から帰ってきたばかりの、疲労した自分自身を疑った。老眼も酷くなってきていたし、歳を取ると自分を疑う要素はたくさん出てくる。それに、最近買ったばかりのギンガムチェックの首輪をしていた事も、夫が大福であると決めつけた要因であった。

しかし固定概念を取っ払い、改めて疑って見てみると、顔や体型は確かに似ているが、大福でないような気がプンプンしてくる。

もうおやつをくれない事を理解したのか、大福はスッと立ち上がると、とことこと歩き出した。夫婦はそれを目で追う。大福は壁際に設けてある犬用のトイレトレーのところまでやってくると、足を上げて、ジャーとおしっこをしたのだ。これはもう決まりだ。
「大福じゃないな」
「そうですね。大福じゃないですね」
「そうなると、このしつけの行き届いた天才犬は誰だ?どうしてうちにいる?大福は何処に?」
「そういえば、晴彦、今日散歩でドッグランに行ったって」
妻が思い出したように言った。
「そこで取り間違えたのかも」
「ドッグランに連絡してみます」

夫婦は取り間違えた大福でない柴犬を連れてドッグランにやってきた。終了間際ということもあり、利用者も少なく閑散としていた。

受付で待っていると、スタッフが大福を抱えてやってきた。大福は夫婦ふたりの顔を見ると、興奮して足をせわしなくバタバタと動かし、今にもスタッフの腕から飛び出しそうな勢いだ。

続いてやってきたのは、若い派手な顔立ちをした女性。大福でない天才柴犬の飼い主だろう。不機嫌丸出しの態度だったが、愛犬が取り間違えられたのだから、当然のことだ。

夫婦は丁重に大福でない柴犬をお返して頭を下げる。
「誠に申し訳ございませんでした」
「間違えるなんて、信じられないんだけど」
30歳程年の離れた若い女性に偉そうに言われたが、悪いのはこっちなので言い訳などせず、ひたすら頭を下げその場をどうにか収めた。
「行くわよ。アンドリュース」
若い女性は、大福でない柴犬と共に去って行った。

自宅に戻った。長い一日だった。妻は、夕食前だったが、寂しい思いをさせた大福に埋め合わせというわけではないが、犬用のクッキーをあげることにした。さっきまで全然関わりのない犬にあげていたのに、大福にあげないわけにはいかない。

クッキーを手に取った妻は、ふと大福である事を確かめたくなった。大福はクッキーをくれるのかと、尻尾を激しく振り喜ぶ。
「大福、いくわよ」
妻は大福にクッキーを見せてから「お手」と手を差し出す。大福はいつクッキーをくれるのかと、口を大きく開けて涎を垂らしながら、ただ見詰めているだけだった。

「あなた、あなた、ちょっと来て」
妻はリビングでくつろぎ始めた夫を呼んだ。また何かあったのかと、夫は慌ててやってくる。
「どうした」
「大福が、お手をしないの」
妻は嬉しそうに言う。
「そうか、お手しないか」
夫も嬉しそうに言う。
「大福ですね」
「ああ、大福だな」

妻は目を潤ませる。久しぶりに我が子に再会したような喜びが込み上げてきた。
「大福。大福なのね」
妻は高い声をだして、ご褒美のクッキーをあげると「大福、お手しなかったの。いい子、いい子」と、赤ちゃん言葉になり、大福の頭を撫でてほめてあげる。

「ちょっと、俺にもやらせてくれ」
夫はクッキーを手にすると「お手」「お代わり」「ふせ」「ちんちん」と次々と指示を出していく。大福はただ涎を垂らすだけで何もしない。さらに大福に向かって「パン」と拳銃を撃つ真似をする。それにも無反応。最後に夫は「1+1=」と声を張り上げる。大福はやっぱり無反応。尻尾をフリフリ早くくれと夫のズボンの裾に噛み付く。
「ああ~、大福だ」
夫は喜びを噛みしめ、ご褒美のクッキーをあげる。

突然、大福はスッと立ち上がると、とことこと歩き出した。夫婦はそれを目で追う。大福はリビングまでやってくると足を上げ、カーペットにジャーとおしっこをした。
「おお~、おしっこした。これで疑いようもなく、完璧に大福だな」
「もう絶対大福よ。カーペットでおしっこをしたんでちゅか。いい子、いい子」

その後、夫婦は嬉しそうにカーペットについたおしっこを拭くのであった。

作者プロフィール

春名功武(はるないさむ)

1977年、兵庫県生まれ。2000年大阪シナリオ学校演芸放送台本科卒業。第7回テレビ朝日21世紀新人シナリオ大賞優秀賞受賞。フジテレビ『世にも奇妙な物語』の脚本を執筆。第1回日経「星新一賞」優秀賞(JBCCホールディングス賞)受賞を経て、小説家としてデビューする。2015年からアニメ「ちびまる子ちゃん」の脚本をレギュラーとして担当し現在に至る。

【問い合わせ先】

メール:i.haruna@samba.ocn.ne.jp

小説を読もう!」にて作品掲載中。

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