戦国時代のキリスト教の影響下における仏教排撃の動き

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ご挨拶

善逝(ぜんぜい)と申します。

ご縁あって、この『なないろ!』でブログ記事を掲載いただくこととなりました。

仏教にまつわる歴史的なお話しですとか、参拝や、仏事の作法などなど・・

いろいろお伝えしていきたいと思っています。

よろしくお願いいたします。

はじめに

手を合わせる。

普段「信仰心がない」と言っていても、お寺や神社のお堂や拝殿に立ち寄れば、まず間違いなく手を合わせると思います。

これは、日本の素晴らしい文化、民度ではないかと思うんです。

基本的には争いごとを好まず、町のあちらこちらにお寺や神社があり、日々の生活において、仏様や神様を身近に感じるというのは、世界に誇るべきセンスではないかと思わずには居られません。

ところが、明治の初期に、神仏分離令というものが明治政府から出され、用明天皇以降日本の文化に溶け込んだ仏教が排撃されることになり、日本の誇るべきセンスに疑問を投げかけるような出来事もあります。

日本史は結構因果関係がしっかりしていると思っているんですが、日本史を丁寧に見ていくと、違和感を感じる出来事がところどころ出てきます。つまり、因果関係がわかりにくく、例えるなら突然魔法のように現れる出来事があるんです。

例えば、日本は明治~昭和の時期に立て続けて対外戦争を起こしていますが、それ以前は、攻め込まれたものも含めて、江戸時代末まで5~6回程度しかないことを考えると、とても異質な感じがします。

ただ、軍人の行動を見ると、軍事行動における合理的な分析力と、非軍人に対する紳士的な行動などがあり、対外戦争が多かったとはいえ、日本人らしさがそこかしこに見られる部分があります。

しかし、最後の対中戦争、対米戦争に至っては、耳を疑うような「出来事」もたくさん見られます。

このあたりは、理解に慎重さを持たないといけないと考えています。

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日本らしさが見えにくい不可解な神仏分離令

さて、前置きが長くなりましたが、このような歴史観を持っている私が、今回のテーマに上げるのは「日本らしさが見えにくい不可解な神仏分離令」についてです。

実は、日本史を見ていくと、一地域の小さな規模で、廃仏といえる事件が何度か起きています。

というのも、前にもお話ししたとおり、大きな寺院の中には権力を持つものもありましたので、権力争いという感覚とも言える廃仏というものは数例見られます。

有名なものとしては平家の南都焼き討ちなどでしょうか?

しかしこれらは、仏教や寺院を攻撃したというより、寺院に住まう衆徒(僧兵)を攻撃したという見方が自然だと思います。

ところが、戦国時代にはこれらとは少し毛並みの違うもの出てきます。

あまり言われていないことですが、戦国時代に、キリシタン大名の領地で、寺社の排撃が行われています。

大名配下のキリシタンの武将や足軽らが排撃を行った疑いがあるものとして、松永久秀らの東大寺大仏殿の戦いや、織田信長の比叡山焼き討ち、豊臣秀吉の根来寺攻めなどがあります。

特に根来寺攻めは、別に紀州攻めと呼ばれているほど、広範囲に破壊行為があり、宗派等関係が見出せないような寺院に至るまで実際には破壊行為が行われています。

この際、取り壊した建築物については、高山右近が教会建築のための資材として使いたいと秀吉に申し出ています。信長の時代にもお寺の建物を教会に使うという例がありますので、控えめに見ても仏教とは共存できないとの共通認識が宣教師及びキリシタンたちの間にあったと推察されます。

この戦国時代の排撃行動は、キリスト教伝来以降、宣教師たちが布教活動を行っていた訳ですが、宣教師の出入りの多かった大名、または地域に特に目立つというのが注目される点だろうと思っています。

つまり、寺院や仏像を壊すことに躊躇がない人たちだったと考えられます。

もっとも、キリスト教の教義として偶像崇拝に厳しい立場ですから、ある意味このような事態は当然起きうる出来事だったのかもしれません。

あと、日本の組織における認識として、例えば下剋上という言葉もありますが、戦国以前、以後に関わらず、地位が高くても、常に部下による反乱の可能性がありましたので、キリシタンの足軽たちの破壊行為に対して、戦国大名らも強く制止できなかったという事情もあったと思います。

その後、徳川幕府によるキリスト教禁令によって仏教の排撃運動はなくなっていきますが、数少ない例外として水戸第2代藩主徳川光圀、あの印籠を出す黄門様ですが、檀家制度から外れている、いわばモグリの寺院を廃止、整理しています。

しかし、徳川光圀は、合わせて神社も廃止していて、このことからも単に仏教を排撃したというより、民衆に近い宗教勢力を残し、それ以外の怪しげな宗教勢力を整理したという感覚であったように思います。

ただ、その先例が、幕末の水戸藩主徳川斉昭の時に、再び排撃運動に繋がることになります。

徳川斉昭は、尊王攘夷運動の中心人物でもありましたので、深く神道に傾倒した人物でした。まるで第二次世界大戦中のようですが、彼は、国防上、大砲を作るのに、寺院の鐘などを供出させるよう指示しています。

また、実行した役人が、仏像などの扱いについて、ひどい対応をしたらしく、このことについては徳川斉昭は藩内領民の評判を落としたそうです。

いずれにせよ、日本史においては、全国レベルで仏教の排撃運動は起きておらず、起きたとしても地域レベルの小さな範囲で起きたこと、そして、直接仏教全体を排撃するというより、特定の寺院勢力を弱めるために生じたというのが、まとめられるところだと思います。

ただ、唯一、キリスト教布教の影響があるものを除いて・・ですが。

キリシタン大名:高山右近

さて、しばらくキリシタン大名として知られる高山右近についてお話しします。

高山右近と言えば、キリスト教世界で福者の称号を与えられていて、おそらくキリスト教社会においては最も知られた日本人の一人ではないかと思われます。もちろん日本においても代表的なキリシタン大名ですが、しばらくは信長配下の荒木村重や、豊臣秀吉の家臣であったため、地域一帯を支配するのではなく、リーダーが支配する地域にある一つの城の城主の立場でしかありませんでした。

大名的な地位、兵力、財力を備えたのは、秀吉の天下統一の足がかりとなった山崎の合戦以降と考えていいと思います。

高山右近のキリスト教入信は10歳ごろと推定され、父の影響と言われていますので、かなり若い時期からの信者でした。

高山氏は元々大阪の今でいう大阪府豊能町周辺を根拠地にしていた国人衆の一人です。

ちなみに国人とは、国レベル(この場合は摂津国)にまで成長した規模の大きい地侍という意味です。

室町幕府の影響が強かった近畿地方は、戦国期に入ると、幕府弱体化に伴って、国人衆がひしめく群雄割拠の状態になりましたので、巨大な勢力が入り込んでくると、それになびいたり、逆に反抗したりと、小さな小競り合いとも言える戦闘が数多く行われています。

こうした中、摂津国で力をつけたのが後に織田信長配下となり、反旗を翻して敗死する荒木村重ですが、高山右近は荒木村重の重臣的な立ち位置となり、父友照と共に高槻城の城主となります。

このころから、今の大阪府高槻市周辺が高山親子の根拠地になります。

城の影響下では、高山右近が焼いたと伝承される寺社が多数存在します。

濃味神社、磐手杜神社、金龍寺、伊勢寺、安岡寺、本山寺、神峯山寺、霊山寺、霊松寺、普門寺、広智寺、勝尾寺、山田寺、惣持寺、八幡大神宮、春日神社、野見神社、忍頂寺、光松寺、高法寺、瀧安寺、護国寺、釈迦院、常福寺、善福寺、長杉寺・・

ざっと挙げただけでもこれだけ出てきます。

また別に、この他の茨木神社では、元々祀られている神の御名を隠すため、奥宮の拝殿に移し、信長の崇敬した祇園牛頭天王を本宮の拝殿に移し難を逃れたという伝承があります。こうした対応がなければ、破却された寺社に隣接する茨木神社でも同様の破却が行われたでしょう。

この中には織田信長が破却したと言われるものも含まれていますが、実行犯として高山右近の名前が出てきますので、概ねひとくくりにしていいと思います。

このころの宣教師ルイス・フロイスは「高槻領の仏僧等にキリスト教への改宗を勧め、高山右近はその気持ちがなければ、領内に留め置かないと寺院に伝え、改宗した百名以上の仏僧等の寺社を破壊した」との記録を残しています。(『完訳フロイス 日本史4』を、筆者にて一部要約)

この訳文の読み取り方もあるとは思いますが、右近自ら改宗を勧めたと考えるには、マメに動き過ぎている感があります。

また、同じキリシタン大名の大村純忠の記録では、宣教師の民衆への布教活動に同調する形で、民衆が武装蜂起し、寺院を破壊したとありますので、おそらくは、宣教師による布教活動の影響を受けた領民が破壊し、右近は僧侶に領外追放をちらつかせながら、領民の破壊行動を制止せず、実行されたのではないかと推察されます。

ちなみに、先のルイス・フロイスの記録の続きには「悪魔の像」と仏像のことを表現していますので、実際に破壊した人たちの心理を考えると、全く責められるべきではないとは思います。

日本にキリスト教が入ってきたことは、単純に新たな宗教が入ってきたというだけでなく、既存の仏教や文化の否定に繋がる要素は拭いきれないというのがあると思います。

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豊臣政権のキリスト教排撃について

ちなみに、余談ですが、後年、豊臣政権が全国統一をなした後は、キリスト教排撃に変わっていきます。

この頃の秀吉による対外的な文書を見る限り、宣教師たちの活動が単なる宗教の布教活動ではなく、スペイン、ポルトガルの世界戦略の一端であることが伺え、結果的には秀吉もおそらくそれを見抜いていたのではないかと推察できます。

少なくとも日本古来の文化でもある仏教に対して躊躇せず排撃ができる実行力を生み出したことは、天下人にとって都合のよい話ではなかったでしょう。

日本国内に抵抗勢力がなくなった頃から、刀狩り、キリスト教排撃に変わったというタイミングを見ても、あながち事実無根と切り捨てられない話ではないかと思っています。

また、スペイン、ポルトガルの世界戦略の視点としては、同時期に南米のアステカ帝国を滅ぼしたコルテスは、現地のキリスト教が抵抗勢力として反乱を起こしたことに乗じて、僅かな小銃と馬などの手勢で征服しています。

ただ、日本の場合は鉄砲がすでに国内で量産されていたことと、鉄砲を用いた戦術が整えられていて、数万人を超える規模の兵力の動員が可能であったことから、このようなことは起きませんでした。

あと、この時期、秀吉が引き起こした不可解なものとして朝鮮出兵が挙げられます。

初回の文禄の役の時、遠征軍は約15万の先鋒、第1軍1万8千を率いる大名は、朝鮮半島に詳しい対馬の宗氏を除けば、全員キリシタン大名という陣営であり、出兵そのものは、キリシタン大名の勢力を削ぐためのものではなかったとは思いますが、この出兵に乗じた措置であったと考えられます。

また、15万の兵力を動員して他国に攻め入ったことは、日本、あるいはその近隣諸国を支配するためには、スペイン、ポルトガルがこれに対抗できる兵力を動員できないといけないことを示したことになります。もちろん、そのようなことはできません。

諸説ありますが一例として、コルテスは兵500、馬16、銃約50をもってユカタン半島に上陸・・・、同じくスペイン王の命を受けてインカ帝国を征服したピサロは兵180、馬27でパナマを出発・・・程度の兵力です。他は現地の反乱勢力です。

彼らはスペイン王の命を受けてはいますが、実のところ兵力は個人の私兵ですので、小さな規模のものでした。アルマダ海戦のスペイン無敵艦隊の兵力でさえ3万人程度と言われていますから、それほど兵力を割くことはできなかったと見ていいと思います。

逆にこうした例を見ても、当時の日本の軍事力が如何に高かったかが見て取れます。

少なくともスペイン、ポルトガルが、新興国イギリスに世界覇者の地位が奪われるまで、日本や中国の極東アジアに対して、大した働きかけができなかったのは、このような理由があると思っています。

ちなみに、秀吉はスペインのフィリピン総督に送った降伏勧告状が存在しますが、少なくとも秀吉の世界観に、スペインの存在がなかったとは言えないと思います。

少し長くなってしまいましたが、日本にキリスト教が入ってきた後、統一政権になぜ否定されたのかは、日本だけでなく、世界史的な視点が必要なのは確かなようです。

日本史上の流れ

さて、明治初年の神仏分離令の前置きが随分と長くなってしまいましたが、過去日本史上において、簡潔にまとめますと、次のようなことが言えると思います。

1.キリスト教伝来以前に、仏教という宗教に対する排撃はほぼ見られなかった
2.キリスト教伝来以前に、特定の寺院に対する攻撃はいくつか見られた
3.キリスト教伝来以後も、局地的に排撃は行われたが、統一政権成立後はなくなった

ところで、中学校の鉄砲伝来(1543年)とキリスト教伝来(1549年)との時期が、ほぼ同時期であることに疑問を持たれたことはないでしょうか?

片方は戦争の兵器であり、もう片方は平和に導く宗教です。

少なくとも大航海時代の結果、ヨーロッパの考え方や道具が極東アジアまで到達していて、それも兵器を伴うということですから、ヨーロッパ列強による植民地支配時代の夜明けであったということは言えそうです。

視点をヨーロッパに移します。

秀吉と同時期に日の沈まぬ帝国の王であったのがフェリペ2世です。

片や世界帝国を作ったフェリペ2世と、極東アジアの小さな島国を統一した豊臣秀吉。

この2人を比べるのは確かに無理があるようにも思います。

しかし、先に述べました通り、15万もの鉄砲等で武装した部隊で対外戦争を行えた権力者と言えば、十分に比肩できると思います。

で、面白いことに、このフェリペ2世と秀吉が亡くなった日が1598年9月13日と18日で、5日しか違わないんです。

私はこのことからも、ライバル関係ではなかったか?と考えてしまいます。

さて、日の沈まぬ帝国と呼ばれたスペインも、フェリペ2世の後年にはエリザベス女王の新興国イギリスに覇権争いで敗れてしまいます。

その後、世界の植民地の覇権争いも徐々にイギリスが力を見せはじめ、大英帝国と呼ばれるようになります。

ちなみに世界帝国と言えば日本ではモンゴル帝国が連想されますが、1918年の大英帝国はモンゴル帝国より大きく、世界全土の22.63%を支配し、史上最大の帝国でした。

文字通り7つの海を支配したわけです。

大英帝国が極東アジアに支配的影響力を持ったのは、1800年代中ごろ、第1次アヘン戦争が1840年に開始され、第2次アヘン戦争が終結したのが1860年、日本に目を向けると、1853-54年に2度の黒船来航と日米和親条約締結及び開国、1858年に日米修好通商条約締結、1863年薩英戦争、1864年下関戦争と、開国を境にその10年後には藩部単位(薩摩藩、長州藩)で対外戦争まで生じています。

この対外戦争の相手として中心的な存在であったのがイギリスでした。

この後、イギリスに接近した薩摩藩、長州藩が中心となって倒幕、明治維新となりますが、明治新政府は当然イギリスと親和的な政権となりました。

あまり言われないですが、第2代イギリス駐日大使ハリー・スミス・パークスは、1865-83年の長きにわたって駐日大使となっていますし、その部下のアーネスト・サトウに至っては、1863年ごろから通訳として働きはじめ、空白期間もありますが1900年ごろまで日本の仕事をしています。

人事異動が少なかったということは、つまり、イギリスと親和的、おそらくは日本に対する支配的な要素も含まれていたと考えられます。

幸い、イギリスから日本にはアヘンが持ち込まれることはなく、アヘンに荒らされることはありませんでしたが、その後の日清戦争、日英同盟、日露戦争に至る一連の流れを見ても、明治新政府は、イギリスの世界戦略の一部として機能する親英政権と考えてよいと思います。

最初の鉄道がなぜ新橋-横浜間だったのか?

横浜にはイギリス兵が駐留していますし、イギリス人居留区がありました。有事には居留民確保のための軍事行動が行えますし、続いて、新橋まで速やかに軍を移動させ、そこを拠点に首都東京を素早く制圧する軍事活動が行えます。

まとめ

長くなりました。

実は、このあたりからは仮説になります。

戦国時代のキリスト教の影響下における仏教排撃の動きはすでに説明しました。

その動きは豊臣、徳川政権樹立後、世界帝国スペイン弱体化に伴い、制圧されました。
そしておよそ300年後に、世界帝国イギリスの拡大によって、再びその流れが生じます。

さらに、明治新政府は親英政権です。

明治は脱亜入欧のスローガンの元、洋服、洋食、洋風と言った言葉が作られ、今では想像できないほどに欧米化が盛んに行われた時代です。キリスト教宣教師もたくさん入ってきており、彼らが直接、または間接的に設立した学校教育機関は数多く今でも存在しています。

この時代に神仏分離令の名のもとに、日本史上例がないほどの全国的な排撃運動にまで発展したのは、果たして偶然の産物なのでしょうか?

ちなみに神仏分離令は、慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称ですが、政権設立の時期を考えると、通達の時期があまりに早いんです。

これも教科書とは異なりますが、1867年11月9日の大政奉還で、朝廷と薩長勢力は実権を握ったのではなく、実のところは、突然の政権交代劇により、朝廷は逆に混乱したため、徳川慶喜は事実上の政治的実権を持ち続けることになりました。だからこそ、新政府にとっては、幕府勢力と薩長勢力との武力衝突による勝利が必要でしたし、「勝てば官軍負ければ賊軍」という言葉が生まれることになったわけです。

1868年1月3日の王政復古の大号令に始まり、戊辰戦争の勝利、終結により、ようやく一国の政府として実権を掌握できたのが明治新政府です。

欧米列強諸国の軍事的圧力に屈しない国造りのために弱体化した江戸幕府を倒して成立したとされる明治新政府の最初期の仕事としては、極めて違和感を感じます。

ただ、明治新政府の奥にイギリスの影があったとしたら、逆に極めて納得がいく話になります。

廃仏毀釈によって破壊された寺院からは、当然、美術品の価値を持つ仏像彫刻が行方不明になりましたが、欧米の博物館が所蔵する仏像彫刻が如何に多いか。

なぜ、あれほどまで寺院を壊さないといけなかったのか?

破壊が行われたとして、その後、なぜ、神仏分離令が破壊を意味せず、単に分離を意味するものであったとして、明治新政府は歯止めをかける通達を速やかに出さなかったのか?

これもあまり言われていない話ですが、廃仏毀釈後、明治大正期の寺院経営は、困難を究めますが、先達たちの苦悩を感じると、複雑な気持ちになることがあります。

今回はテーマがテーマだけに、少し歯切れが悪くなってしまいました。まぁ、古くからある文化の破壊ですので、多少ストレスフルになるのは仕方ないかもしれませんね。

では、またこのへんで・・

あなたの心に涼やかな風がゆったりと流れることがあれば幸いです。

善逝 拝

プロフィール

善逝和尚

アラフィフの現役の密教僧侶

大学卒業後、教職員等として、教育畑で働き、20代後半から、心の成長についての探求を始める。

一念発起し、教職員の仕事を辞め、大学院で臨床心理に関する研究と心理分析に関する実践を行う。

大学院修了後、児童の心理相談員をする傍ら、在家でありながら、僧侶の資格も持ち、秘法の伝授も数多く受け、加持祈祷や、お祓いなども多数行う。

現在、スッタニパータなどの原始経典の読み取りに力を入れて、釈尊のお説きになった悟りとは何かを追及している。

M.Ed取得、心理臨床学会員

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